三べ坂

諸元

住所…東京都千代田区永田町2丁目(100-0014)
読み…さんべ
形態…
全No.…33
区No.…千33
区分…公道(区162)
別名…三部坂、三辺坂、水坂
標識…区設坂説明タイプ(千A)
由来…人物

標識

三べ坂
江戸時代、この坂のの付近に岡部筑前守、安部攝津守、渡辺丹後守の屋敷があり、いずれにも苗字に「べ」が付くということから「三べ坂」と名付けられました。坂の上の西側には赤坂門の水番役を務めていた松平出羽守の屋敷があったため、水坂とも呼ばれていました。

つまり

岡部さん、安部さん、渡辺さんの3人の「〜べ」さんが住んでいたから三べ坂。

注釈/ひとこと

【水坂について】
この坂の別名に「水坂」があります。横関(1981)などによれば、水坂は三べが崩し字で「三づ」に読めるからだといいます。しかし、以降の書籍ではおおよそ看板と同じ「水番役が近くに住んでいたから」という見解が記されています。なお、お隣の富士見坂の別名にも水坂があると考えると看板の案が妥当であると思われるのますが、そもそも横関本には富士見坂の別名が水坂であるという記載がないので断定はできません。
【水番役とは】
「水番役」というワードを検索すると、この坂の看板をコピー&ペーストした記事ばかりが当たります。他に詳述するものが見当たらなかったので、ここで記します。
そもそも「番役」というのは、「交替で順番にあたる勤務」(広辞苑第七版 岩波書店)を示すものです。ここでの疑問は、"門"になぜ"水"を見ている番人が必要なのかということになると思います。著作権の関係上ここで古地図を見せることはできないので、各自で江戸時代の赤坂御門(現在の紀尾井町ガーデンヒルズと都道府県会館の間あたり)の様子を見ていただきましょう。すると、赤坂御門には西に弁慶堀、東に溜池が存在することがわかると思います。この当時は、現在に遺る堀のように流路が塞ぎっきりではなく、各堀が川や他の堀と接続することで自然の循環機構が機能していました。つまり、天候等によって水位が左右されたりすることがあったので、そのちょうど結節点にあたる門のところに門番ではなく水番が必要になったと考えられるでしょう。(掲載できる古地図やそれに準ずるものが纏まれば掲載し、トップページ等でお知らせします。
【坂道周辺について】
参議院議長公邸、参議院議員会館、北海道東京事務所、"知の日比谷"とよばれ全国の公立高校で一番の進学実績を出す(2020年現在)東京都立日比谷高等学校などが所在します。日比谷高の校舎は新坂に面しており、この坂は遅刻坂とも呼ばれています。出入り口はありませんが山王切通坂にも面しています。

地図


写真

準備中

動画

準備中


参考文献(直接的に利用していなくとも、近い内容を掲載しているサイトを紹介している場合もあります。) :坂学会東京23区の坂道千代田区内の坂


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